愛着障害

▼大人の愛着障害

心の健康と対人関係の土台 愛着スタイル

         岡田尊司著『働く人のための精神医学』より

今は立派な大人になっている人も、最初から大人だったわけではない。人はみなオギャーとこの世に生まれて、無力な赤ん坊として何から何まで世話をしてもらい、お乳を吸って大きくなった。何かあればすぐにべそをかき、親によしよしされ、守られて育った、幼い子どもの時代がある。


 
もうすっかり立派になって、そんな大昔のことなど忘れたという顔をしていても、その時代の遺産は、しっかりその人の中に根付き、その人の土台となっている。その頃育まれたものが、その人の健康を支え、行動パターンを形づくっている。対人関係や社会生活にも、知らずしらず影響しているのである。

まだ二十代の初々しいヤングアダルトは無論、三十代、四十代の働き盛りの年代や五十代、六十代の円熟期にあっても、まだ乳飲み子だった時代に培われた人格や安心感の土台は、その人の中に確かに息づいている。この人格や安心感の土台となるものが、幼い頃に養育者との間で形成された愛着である。

そんなものはなくても、栄養や快適な環境さえ整えられれば、子どもはちゃんと育つと思うかもしれないが、育たないのである。愛着がうまく形成されないと、いくら栄養や快適な環境が与えられても、成長は止まってしまい、命の危険さえある。運良く育ったとしても、さまざまな困難を抱えることになる。

十九世紀には、施設に連れてこられた赤ん坊の九割が亡くなっていた。二十世紀の中ごろでさえ、孤児院で育つ子どもの三分の一は、幼いうちに亡くなっていた。大人になるまで育った場合にも、著しい発達や社会性の問題を抱えるのが常だった。ことに、対人関係や子育てがうまくいかなくなるのだ。

ところが、不思議なことに、刑務所の育児室で育った子どもたちは、死亡することもなく、発達上の問題もあまりなかった。すくすくと育っていたのである。しかも、環境としては、刑務所に育児室の方がお粗末なものだった。一体、何がこの違いを生むのだろうか。

そんな疑問を抱いたルネ・スピッツという精神科医が調査した結果わかったことは、たった一つの違いが、子どもたちの生命や発達を左右しているということである。それは、刑務所の育児室の子どもたちは、母親に育てられていたのである。そのことがわかったのが一九四五年のことだが、それがどういう意味をもつのかということが、明らかになるのは、十数年後のことである。

何が起きていたのか。結論から言えば、子どもの成長には安定した愛着が養育者との間で築かれることが不可欠だったのだ。そして、その愛着とは、誰でもいいから抱っこしたり可愛がってもらえばいいというものではなかった。愛着とは、特定の人との間で育まれるものなのである。それを愛着の選択性という。施設で育った子どもたちがうまく育たなかった最大の理由はそこにあった。

イギリスの精神科医ボウルビィ―の研究によって、そうしたことが理解されるようになり、施設での養育も改善が図られた。その子を担当する保育者が中心的にかかわる仕組みに替え、スキンシップを増やすといった対策がとられた結果、死亡率や発育の問題は改善することとなった。とはいえ、そこには限界がある。親から離されて育った子どもには、発達や対人関係の問題が起きやすく、愛着障害と呼ばれるようになった。

普通」の子どもの問題に

このように愛着の問題というのは、特別に不幸な境遇に生まれた子どもたちの問題だと考えられてきた。ところが、一九八〇年代くらいから、一般の家庭で親に育てられた子どもでも、施設で育った子にみられるのと同じような愛着障害を抱えた子どもが急増し始めた。その原因は明らかだった。虐待やネグレクトを受けていたのである。いくら親もとで育っても、親が不安定であったり、未熟であったりして、子育てがうまくできなかったのである。親自身が愛着障害を抱えていると、子育てが困難になりやすく、愛着障害の世代間伝播が起きてしまうことが指摘されるようになった。

今日アメリカでは、三分の一の子どもが、実の親ではない養育者と暮らしていると言われている。日本でも虐待やネグレクトの問題は、身近な問題になりつつある。

さらに、従来の認識を変えるような事実がわかってくる。母親に育てられている一般の子どもたちを対象に調べてみると、一歳半の段階で、愛着が安定していたのは三分の二にとどまり、約三分の一の子どもが、母親に対して不安定な愛着しか示さないことがわかったのだ。愛着障害というほどではないが、不安定な愛着パターンを示し、そうした子どもでは、成長するにつれて、不安やうつ、依存や行動上の問題といった特有の問題が認められやすかったのである。

こうして、かつては特別な子どものことと考えられていた愛着の問題が、実は身近な問題だということが認識されるようになったのである。

さらに研究が進むにつれ、中年と呼ばれる年齢に達しても、約三分の一が不安定な愛着スタイルをもち、それが社会生活や対人関係、心身の健康に影響を及ぼしていることがわかってきた。

まず、本章では、もっとも幼い段階に培われ、その人の土台を形成することで、生涯にわたる影響を与える愛着スタイルについて、そのエッセンスを学ぼう。メンタルヘルスの問題を語るには、まずこの土台の部分を理解しておくことがとても大事なのである。

たとえば、大人になって、うつや不安障害になるという場合にも、対人関係や結婚問題、子育てで躓くという場合にも、その人が幼い頃から身に着けた愛着スタイルや愛着の安定性が、知らずしらず影を落としているということが少なくないのである。目の前の問題だけを見ていたのでは、問題の全体像はつかめないのである。そこが見えてくると、さまざまな形で出てくる表面的な症状の根底にある問題との関係が、立体的な奥行をもって理解されるだろう。

愛着は生存のためのメカニズム

愛着という現象は、心理学的な現象というよりも生物学的な現象である。ふれあいとか人との絆とか言うものは、あってもなくてもいいものと思われがちである。その大もとにある母親と子どもの結びつきというものは、生物学的には生存の不可欠なものとして進化して来たものである。

幼い子どもが母親に愛着し、抱きついて母親にしがみつくことも、母親がわが子を抱っこし、ひざ元から離れないようにするのも、安全を確保するだけでなく、その子がいつか自立して生きていく準備をするためであった。その準備の部分には、安心感や他者に対する信頼感といった心理的な要素もあるが、実は、その根底には、生物学的な仕組みがかかわっているのである。

愛着という現象のベースにあるメカニズムは、オキシトシンというホルモンによって支えられている。オキシトシンは、もともと乳汁の分泌や陣痛分娩を引き起こすホルモンとして知られていた。ところが、二十世紀の終わりになって、このホルモンが社会的な行動や不安、ストレスに対する敏感さといったことに関係していることがわかってきたのである。今では、社会性ホルモンとか愛情ホルモンと呼ばれることもある。

つまり、オキシトシンが豊かに分泌されると、対人関係が活発でスムーズになり、社会性が高まるとともに、不安やストレスを感じにくくなるのである。逆に、このホルモンの働きが悪いと、対人関係が乏しく、ぎくしゃくしがちになり、社会性の能力が低下するのである。また、不安やストレスに過敏になり、うつにもなりやすくなる。

オキシトシン・リッチな人は、優しく寛容で、人の痛みに共感し、困っている人を分け隔てなく助けようとする傾向がみられる。一方、オキシトシン・プアな人では、厳格で潔癖で、両極端で、人が信じられず、人の痛みより自分の痛みに敏感で、攻撃的な傾向がみられる。

母乳で育てるメリットの一つは、オキシトシンの分泌が豊かになることで、愛着が育まれやすくなるだけでなく、母親がストレスや不安を感じにくくなり、産後うつを防ぐ効果があることだ。

お腹を痛めて生んだ子は可愛いというが、出産のときに大量に放出されるオキシトシンは、身を裂かれるような苦痛を和らげるとともに、愛着を活性化させ、子どもとの絆を強める。

一方、子どもの方は、抱っこされたり授乳されたりといったスキンシップの中で、オキシトシンの分泌が促され、安心感を得ることができる。この時期の世話やスキンシップが大事なのは、それだけではない。実は、オキシトシンがうまく働くためには、オキシトシンが分泌されるだけでなく、それと結合し、感知する受容体が必要なのである。よく抱っこされ、安心感を与えられて育った子では、このオキシトシン受容体が増えやすいのである。不幸にも、放って置かれ、泣き叫んでも応えてももらえず、ネグレクトや虐待を受け手育った子では、脳内のオキシトシン受容体の数が少ないのである。その結果、オキシトシン・プアな体質を身に着けてしまう。

 性善説と性悪説の根源

昔から、人間の本性をめぐって二つの見方が対立してきた。一つは、性善説と呼ばれるもので、人の性は善なりと説く。どんな悪人にも、本当は優しい心があると信じようとする。孟子などが、その代表で、孟子はその優しい心を「惻隠の情」と呼んだ。一方、人の本性は悪だと説く荀子を始め、性悪説も根強く支持されてきた。君主たるものは、敵であれ臣民であれ、欺きコントロールすることができなければならないと説いたマキャベリーやこの社会を「万人の万人に対する戦い」とみるホッブスの世界観は、資本主義社会の現実の中では、強い説得力をもつだろう。しかし、そんなせちがらい世にあっても、わが身を捨てて他人の幸福のために献身する人がいることも、まぎれもない事実である。

一体、この対立はどこから生まれるのだろうか。その疑問に対する一つの答えが、オキシトシン・システムの違いかもしれない。生まれて間もない時から、幼いうちに大切に育てられた人では、オキシトシン・リッチな体質を育むことができ、人を信じるという性善説を心に抱くようになる。だが、幼い頃から、冷たい仕打ちを受けると、オキシトシン・プアな体質になってしまい、到底人を信じることなどできない。その違いは、生物学的なものであり、両者を隔てる溝は、そう簡単には埋まらない。

社会で生きていくうちに、オキシトシン・プアで、人が信じられない人も、マキャベリー的知性を働かせ、人を信じている振りをした方が得策だと気づき、そうしたポーズを身に着けるようになるかもしれない。だが、やがて、そんな化けの皮ははがれてしまう。職場でなら、そのカモフラージュが通用しても、家庭で一緒に暮すとなると、本性を現さざるを得ない。

しかし、宗教家や慈善家になるのなら話は別だが、今日の資本主義社会で明らかに成功を収めているのは、人を信じないオキシトシン・プアな一面をもっている人々だ。人に痛みに敏感な共感性よりも、計算高くずる賢いマキャベリー的知性に長けた方が、ビジネスで成功するチャンスははるかに大きい。そうした人を手本にして、その生き方や戦術を学ぼうとさえする。だが、それは、幸福に生きる上ではもっと大切なオキシトシン・リッチな生き方を捨てるということにもつながる。生き馬の目を抜く世界で生き残ろうとすれば、愛着など棄て去らねばならないが、それが、自分を支えてくれている存在との愛着さえも危ういものとするのである。

要するに、今日のビジネス・パーソンたちは、一方でオキシトシン・プアな生き方をせざるを得ない状況にあり、だが、それが彼らの幸福と生存を支える基盤を蝕んでいるというジレンマに立たされている。

 臨界期とその後の影響

話しを戻せば、オキシトシンを基盤する愛着を支えるシステムの大きな特徴は、生まれつき出来あがったものというよりも、世話や愛撫という養育者との関わりの中で、育まれていくという点である。愛着が安定しているかを左右する遺伝要因は、約二十五%にとどまり、養育環境などの環境要因が、四分の三を占める。幼いうちのかかわりが、社会性や対人関係、ストレス耐性や不安の強さ、パーソナリティの特性や生涯の健康までをも、遺伝子以上に左右してしまう。愛着スタイルは、その人の「第二の遺伝子」と呼べるほどなのである。

だが、同時に遺伝要因も四分の一程度は関与することも事実だ。たとえば、遺伝子レベルの影響がわかっているものに、セロトニン・トランスポーターの遺伝子多型がある。繰り返し配列が短いタイプの遺伝子タイプをもつ人では、不安を感じやすく、愛情不足や関わり不足の影響が出やすい。不安型と呼ばれる愛着スタイルを呈しやすい。

もう一つよく知られているものに、ドーパミンD4受容体の遺伝子多型があり、繰り返し配列が長い遺伝子タイプの人では、好奇心が旺盛で、活動的で、真新しいものに注意が引き寄せられやすい。この遺伝子タイプをもつ人は、自分で勝手に行動しようとするので、大人から見ると、やんちゃで言うことを聞かない子という評価を受けやすい。親からすると育てにくく、愛着が不安定になりやすい。回避型や混乱型と呼ばれる愛着スタイルを呈しやすい。回避型はネグレクトを、混乱型は、虐待を受けた子に多いものである。

しかし、いずれの遺伝子タイプをもつ子どもでも、親が共感的な養育を行う場合には、愛着はむしろ安定することがわかっている。つまり、不安が強い子も、やんちゃな子も、養育環境の影響に対して、とても敏感であり、いい方向にも悪い方向にも影響が出やすいと言える。

日本人では、セロトニン・トランスポーター遺伝子のタイプが、不安を感じやすいタイプが三分の二を占め、三分の一は特に不安を感じやすい。六割が不安を感じにくいタイプである白人とは、その比率が逆である。つまり、養育環境の影響を白人以上に受けやすい。

欧米流の子育てが日本にも移植されたが、愛着が不安定な人が急増している背景として、子育ての方法が急変したことと無関係ではなさそうだ。

 愛着が形成される特に重要な時期を臨界期と呼ぶが、それは一歳半くらいまでとされる。愛着の安定という点からいえば、その間は、できるだけ母親が身近にいて育てることが望ましい。待機児童の問題がやかましく言われているが、できれば一歳未満で、預けることは避けたい。預けなくても、安心して子育てに取り組める制度が、本当は必要なのである。

そのことを強く感じるのは、働く母親の代表である看護師さんに、お子さんとの関係で悩んでいる人が異様に多いということだ。制度的なバックアップが乏しかったため、彼女たちは、産後六週で職場復帰をしなければならなかった。母子ともに過酷な状況を強いられたのである。

その後も、影響を受けることがわかっており、たとえ一歳半の時点で、愛着が不安定であっても、関わりを増やし、安心感を与えるように心がけることで、愛着を安定したものにするとも可能である。

その場合、愛着を安定化させるポイントは、三つある。一つは、スキンシップと安心感。二つ目は、応答性。三つ目は、共感性である。

スキンシップは、オキシトシン・システムを活性化し、愛着形成を促すとともに、安心感を高める。一杯抱っこやハグをし、体を使って遊ぶ。怒りたくなったら、抱きしめて、そっと耳打ちするように、話しかけよう。

応答性は、本人のアクションに対してリアクションすることだ。本人が助けを求めたり、関心を求めら、それに応えてやる。それが基本だ。求めているのに与えないのもいけないが、求めてもいないのに、与え過ぎるのも、本人の主体性を押し潰してしまい、マイナスだ。

共感性は、本人の気持ちを汲みとるかかわりだ。本人の気持ちを言葉にしたり、本人が求めているものを察知する。大人の視点ではなく、本人の目線で感じ、考える。そうした関わりは、愛着を安定させるだけでなく、心を育てていくのを助けることにもなる。

 

青年期に達する頃には、その人の愛着スタイルはほぼ固まったものになる。しかし、それで終わりというわけではない。一部の人では、その後の体験によって、安定していた愛着が不安定になったり、逆に不安定だった愛着が安定したものに変わるという場合もある。そこにもっとも関係するのは、配偶者との関係だと言われる。昨今は、イジメやハラスメントなど、強い孤立を味合わされるよう状況が頻発しているが、そうした否定的な体験も、愛着にダメージを与えてしまう。

憂うべきは、愛着スタイルが不安定になると、特定の人との関係だけでなく、それが他の人との関係にも類焼し、広がっていくということだ。誰かから責められていると、味方になってくれている人さえも、自分を責めているように思ってしまうということが起こりやすいのである。愛着スタイルという言い方のもつ意味は、そうした広がりと普遍性をもった感じ方、対人関係のもち方の様式ということであり、一つの関係がぎくしゃくし始めると、それが飛び火してしまわないように、余程用心する必要がある。トラブルに巻き込まれて、自分愛着スタイルまで不安定なものにならないようにしたい。

 

安全基地があなたを守る

そうした状況で大切になってくるのが、安全基地である。安全基地とは、ボウルビーの弟子で、発達心理学者のメアリー・エインスワースが用いた言葉で、安定した愛着の働きをそう呼んだのである。安全基地をもっている人は、知的探求や対人関係を活発に行おうとする。それは、いざ困ったときは、安全基地である存在に安心して助けを求めることができるからだ。ところが、安全基地がうまく機能していないと、いざとうとき梯子を外されるのではないかと疑心暗鬼になったり、つらい思いをしても支えてくれる人もいないと思ったりして、踏ん張る元気が出なくなる。

安全基地の役割は、大人となっても同じである。いざというときに、相談したり、甘えたりして、心の傷を癒し、支えを得ることができる人は、スト擦れのかかる状況にも強い。どんな偉い人も、家の中では、子どものように甘えたいものである。甘えられる存在がいることが、その人を守っている。

いつでも困ったときに、すぐに駆けこめるというのが理想だろうが、もっと成熟した大人になってくると、そんなに頻繁に頼る必要はなくなる。たとえ会って顔を見、話をすることができなくても、その人の安全基地として機能しているという場合もある。ある人の顔を思い浮かべ、その人の言葉を思い出すだけで、気持ちがほっとして、心が癒され、気力が甦ってくるということも珍しくない。ある存在が、心の安全基地としてしっかり取り込まれていれば、実際にそばにいなくても、安全基地としてその人を支え得る。

精神科医であり、アウシュビッツ強制収容所から生還し、『夜と霧』や『死と愛』などの重要な著作で、極限的な状況で人間の生存を支えるものは何かというテーマを追求したヴィクトル・フランクルは、妻とも両親とも離ればなれになり、すべてを失った自分がどうやって強制収容所での過酷な体験を生き延びたかを語っている。彼は絶えず生き別れになった妻と、心の中で対話をした。凍てつくような雪の中に何時間も立たされて、過酷な目に遭っているときも、彼は、妻ならこの状況を見て、何と言うかを思い浮かべ、妻ならこう言ってくれるだろうと思い、心の中でその声とやりとりすることで、追い詰められることを免れたのである。

だが、現実には、そのときすでに妻は亡くなっていたのだ。フランクルの心の中では生き続けることで、安全基地として、彼を救ったのである。

驚くべきは、それほど悲惨な体験をしても、フランクルは人間に対して決して絶望しなかったということだ。彼の著作は、人間に対する信頼と希望に満ちている。人間の弱さや醜さではなく、強さや素晴らしさが語られているのである。それは、彼が安定した愛着をもつ、オキシトシン・リッチな人物であり、そうした彼の特性は、アウシュビッツという体験さえも変えることはなかったということを示している。

それと関連するかもしれないが、小児がんのような過酷な体験を乗り越えた人では、むしろオキシトシン・リッチな傾向がみられるという。虐待やネグレクトを受けて育った人とは、対照的である。同じつらい体験も、それを前向きに乗り越えられたかどうかによって、その影響はまったく違うものなるということだ。

 

あなたの愛着スタイルは?

おおむね青年期を迎える頃には、その人の愛着スタイルというものが出来あがってくる。そのタイプを知っておくことは、自分の生き方や物事の受け止め方を、より深いところで知らずしらず左右している無言の力を理解することになるだろう。

愛着スタイルは大きく、安定型(安定自律型)と不安定型に分けられる。不安定型は、さらに、不安型(とらわれ型)と回避型(愛着軽視型)に分けられ、両者がオーバーラップした恐れ・回避型もある。また、過去に愛着が傷ついた体験を引きずっている未解決型が重なることもある。

 

1.安定型愛着スタイル

安定型の人は、安心感や人に対する信頼感に恵まれていることにより、対人関係が恒常性をもったものとして安定しやすく、ストレスにも強い。どんなときも自分は大丈夫だと信じることができるし、困ったときには、助けを求めることもできる。しかし、それですっかり他人に依存するわけではなく、自分で決断し、自分で責任をもって行動するという自立したスタイルをもつ。寛容で、極端に走りにくく、悪い状況にあっても、前向きな気持ちを保ちやすい。いわゆるオキシトシン・リッチなタイプである。


 2.不安型愛着スタイル

不安型の人は、相手の人に見捨てられるのではないか、嫌われるのではないかという不安が強く、相手の顔色を見て、それに気持ちや行動を左右されやすい。自分で決断できず、人に頼り過ぎてしまう。淋しいのが苦手で、一人ではやっていけないと感じている。その癖、相手の至らない点や欠点には手厳しく、頼っている人を責めたり攻撃したりしやすい。気分や人生に対する態度もネガティブになりやすく、良いことよりも不満な点や心配な点にばかり目が行きがちである。

 

 ケース うつ、過食、過呼吸に苦しめられる女性

 Nさんの母親は、専業主婦だったが、お嬢さん育ちだったため、子育てが負担になり、精神的に不安定であった。産後うつになっていたのかもしれない。家事もせずよく寝込んでいたり、ときにはベランダから飛び降りようとして父親とつかみ合いになったこともあった。

 Nさんは、幼いながらも、母親の体調を気遣い、母親の顔色や機嫌をうかがって暮すようになった。母親が元気なら、Nさんも元気だが、母親の顔色が曇っていると、また何か悪いことが起きるのではと不安に感じてしまう。そうした状況は、小中学生になっても続いていた。母親は心から甘えるということはなく、むしろ父親の方を頼りにしていたが、母親に本当は褒めてもらいたかった。だが、母親は誰に対しても、不満や批判が多く、Nさんもあまり褒められたという経験がない。

 それでも、Nさんはずっと、いわゆる手のかからない良い子で、高校まではほぼ順調だった。ところが、大学生の頃から、気分がときどきふさぎ込むようになり、過呼吸を起こしたり、過食をしたり、自己嫌悪に駆られて、死にたくなったりということが起きるようになった。

 就職してからも、そうした状態が続き、仕事を何度か変わらなければならなかった。よく気が付き、「いい子だね」とどこでも気に入られるのだが、自分としては、気を遣いすぎて、しんどくなってしまうのだ。ありのままの自分をみせられるのは、彼氏だけで、彼氏にべったり依存しているが、その癖、彼氏に対して辛辣な口を利いたり、不満ばかりを言ってしまう。どうせ自分のことを見捨ててしまうのではないかという不安もあり、少しでも自分を否定されると、怒りが爆発するという。

 Nさんに見られた慢性的で、軽い落ち込みは気分変調症(プチうつ)呼ばれるものだ。また、自分一人では、自分を支えることができず、彼氏にべったり依存しているのは、依存性パーソナリティの人によくみられる。顔色に敏感で、見捨てられるのか不安が強く、自己否定や自殺念慮が見られるところから、境界性パーソナリティ障害の傾向もうかがわれる。また過呼吸になったこともあることから、不安障害もありそうだ。プチうつや依存性、境界性パーソナリティ障害、過食症、不安障害といった一連の状態は、不安型愛着スタイルの人に生じやすいものである。土台である愛着が不安定であることにより、さまざまな症状のドミノ倒しが起きやすい。各診断名をばらばらに並べても、問題の本質は見えないが、愛着という観点で理解すると、母親との愛着が不安定なまま育ったことが、その後の困難を準備することになったという事情が見えてくる。

 この女性の場合も、依存している彼氏に対して、攻撃や非難を向けやすい傾向がみられた。それは、さながら母親が父親にしていたことを再現しているようだったが、彼女自身はそのことに気が付いていなかった。

不安型の人が留意すべきポイント

不安型の愛着スタイルの持ち主にとって、安全基地はとりわけ重要なものである。成人になると、安全基地は、親から恋人やパートナーに移っていく。

愛着不安の強い人では、ついネガティブな反応をしてしまうのがクセになっている場合がある。頼っているのに、つい相手を貶してしまう。感謝よりも不満を抱きやすく、些細な問題にも非難や攻撃を浴びせてしまいがちである。些細な不満や問題にも、過剰反応しやすく、他に良い点があっても、すべてを否定する方向に向かいやすい。

母親に頼りながら、母親が思い通りに安心を与えてくれないと、母親に怒りをぶつけていた幼い頃のパターンが尾を引いているのである。だが、それは、自分の足に鉞を揮っているようなものだ。せっかくその人を支えてくれている存在を失ってしまうことにもなりやすい。

自分の不安やストレスを周囲にぶつけるというネガティブな反応パターンを自覚して減らし、ポジティブな反応や相手の欠点を受けいれ、許すという寛容な態度を心がけることで、対人関係やパートナーとの関係も安定することにつながる。

 克服のためには、メンタライゼーション(自己視点を離れて、客観的視点や他者視点で物事をみる力)を高める取り組みが必要になる。筆者が開発した両価型愛着改善プログラムは、不安型愛着スタイルの改善に必要なそうしたトレーニングが、段階的に取り組めるように構成されている。岡田尊司著『不安型愛着スタイル』にも克服のヒントが詳しく書かれている。

 
 3.回避型愛着スタイル

回避型の人は、対人関係にはあまり求めず、仕事や自分の関心のある趣味などに生きがいを見出す。人から頼られたり相談されたりするのは、鬱陶しく負担に感じてしまう。親密で距離の近い関係も苦手で、あまり楽しく感じられない。一人で好きなことをして過ごす方が楽だと感じる。身体的な接触や性的な営みに対しても消極的な傾向がみられる。傷つくことや失敗を避けようとして、せっかくのチャンスでもチャレンジをしようとしないところがある。そのため、本人の実力がなかなか生かされない。責任がかかることを嫌い、昇進や立身出世にもあまり関心がない。結婚や子どもをもつことも不安に感じ、二の足を踏んでしまう。自分の気持ちを言葉にして表現したりすることが苦手で、感情が抑制されがちだ。自分の健康状態についても無関心なところがあり、ストレスがいつのまにか体の症状として出やすい。

 

 ケース 人づきあいが苦手な男性

 Kさんの母親は、仕事で忙しく、Kさんは、主に祖父母の手で育てられた。祖母には懐いていたが、母親に対してはよそよそしく、遠慮するところもあった。小さい頃からしっかりしていて、自分のことは自分でするのだが、友達といっしょに楽しく遊ぶことは苦手で、すぐにトラブルになったり、いじめをしたりした。学校の先生から、愛情不足ではないかと言われたこともあった。

 学年が上がると、行動は落ち着いたが、祖母が亡くなった頃から、消極的で内気な傾向が強まった。誘われたら一緒に遊ぶこともあるが、自分からは遊びに加わろうとはしない。勉強はそこそこできたが、もう少し頑張れば、もっと上を目指せるのにと周囲が思っても、努力するわけでもなかった。

 大学に進んでからも、人付き合いはあまりせず、講義と下宿の往復であった。サークルに所属したこともあったが、親しい友人はできず、いつとはなしに行かなくなった。コンパに参加しても、周りが楽しそうに盛り上がっている中で、あまり楽しめなかった。知り合った女性から、映画に行かないかと言われたことがあったが、興味がないので断った。

 就職してからも、何度か縁談があったが、あまり関心を示さない。家では、パソコンやゲームをして過ごすことが多い。無難に技術的な仕事はこなしていたが、三十代半ばで係長に昇進して、チームをまとめなければならなくなってから、急に仕事がつらくなり、会社で胃が痛むことが増えた。そのうち、朝が起きられなくなり、会社に行こうとすると、吐き気やめまいがするようになった。医療機関を受診したところ、適応障害、ストレス性胃炎と診断された。

 現在起きていることだけを見れば、昇進によって苦手なチームでの仕事が増え、ストレスが増し、適応障害を起こしたということになるだろう。しかし、それはドミノ倒しの一番最後のドミノ牌が倒れた説明でしかない。そこに至るまでには、長い助走があったわけだ。

最初のドミノ牌がどこから倒れはじめたかということになると、母親との愛着が形成されなかったというところに遡れるだろう。母親に対してよそよそしい態度をとるのは、回避型の典型的なサインである。回避型の子どもでは、攻撃性やイジメといった形で、自分が抱えている淋しさを紛らわそうとすることがある。母親の代役を務めていた祖母が亡くなったことは、彼にとっては、愛着対象を失ったことを意味しただろう。無気力無関心な傾向は、喪失体験の悲しみが、解消されることなく遷延することでも起きやすい。チャレンジや傷つきを避けることで、どうにか自分を守っていたが、昇進という事態に至って、守りきれなくなったものと思われる。

 

回避型の人が留意すべきポイント

 回避型の愛着スタイルの持ち主にとっては、興味のあることを話せる人が一人か二人いれば、それで十分だ。このタイプの人は、親密な関係や家族的なつながりを、むしろ重荷に感じてしまう。それゆえ、家族サービスといったことにも、消極的で、面倒に感じてしまう。安定型の人が、心からそうしたことを楽しめるのとは、おおきく違っている。

 回避型の人は、他人に頼りもしないが、他人が困っていても、無関心なところがある。そうした態度が、冷たいとみなされたり、孤立を招くことになりやすい。

それは、配偶者となる人にとっても同じだ。回避型の人を配偶者にもつと、自分が放って置かれているように感じ、ストレスを感じやすい。そのツケは早晩回ってくることになる。自分では自覚しないうちに、回避型の人は、配偶者から見捨てられる道を歩んでしまう。

 対人関係とは、相互的なものである。手入れを怠ると、怠った分は、必ず自分に降りかかってくる。安全基地がもはや安全基地ではなくなり、危険な場所となってしまってからでは、遅いのである。

 良い仕事を成し遂げるためにも、良い安全基地を維持し、それによってうまく支えられることが必要である。安全基地を安全なものに保つためにも、メインテナンスを怠らないことだ。パートナーがあなたにとっての安全基地であってほしいと思うならば、あなたも、パートナーにとっての「安全基地」となるように努めることが大事である。

回避型の人は、応答性が乏しくなりがちで、相手が物足りない、自分に関心をもってもらえていないと、感じやすい。務めて応答を増やすように努める必要がある。表情を豊かに、非言語的な反応することも、応答性を高めることにつながる。

 回避型の克服のためには、心を開いたり情緒的交流をもったりすることの楽しさを、無理のない範囲で体験することが役に立つ。カウンセリングはそうした第一歩となる。生き物の世話をしたり、他者に喜んでもらえる体験をすることも、殻を破るきっかけとなる。筆者が開発した回避型愛着改善プログラムは、回避型をすべて変えてしまうことではなく、自分にとって不利益な回避を減らすための取り組みやトレーニングに段階的に取り組めるように構成されている。岡田尊司著『回避性愛着障害』にもヒントとなることが多く書かれているので参考にしていただきたい。

 4.恐れ・回避型愛着スタイル


 回避型と似て非なる状態が恐れ・回避型愛着スタイル である。拒否されることに敏感な不安型の要素と、心を開くことを避ける回避型の要素が入り組んで、同居した状態で、心の一方では、親密な関係に憧れを持ちながらも、拒否たれ傷つくことが怖くて、接近することができないというジレンマを抱えている。回避型のように、人に期待しないことに徹することができず、心のどこかでは、信頼し合える存在を求めている。それゆえに、心は余計苦しく、揺れる。不安定な愛情環境で育ったり、大切に思っていた人から冷たくされ傷ついた経験を引きずっていたりする。

 不安定な要素が強い半面、安定した関係を望んでいる面もあるため、克服しようとする人では、意外に変化しやすい面もある。作家の夏目漱石は、恐れ・回避型愛着スタイルを抱えて苦しんだ人だが、彼の晩年は、妻との関係も安定して、穏やかなものだった。

 筆者が開発した恐れ・回避型愛着スタイル改善プログラムは、少しずつ心を開き、自己開示する取り組みとともに、メンタライゼーションを高めて、共感力を育くむトレーニングが、段階的に行えるようになっている。

 5.未解決型愛着スタイル

未解決型は、親のことを考えるだけで、気持ちがむしゃくしゃしたり落ち込んでしまったりしやすい。傷ついた場面がときどき蘇ってくることもある。そのことを話そうとすると、冷静ではいられなくなり、感情に押し流されそうになる。両親との別れや両親の不和や離婚、虐待や見捨てられた体験などが未解決な傷となっていることが多い。

不安型の人に、未解決型が重なると、情緒や対人関係がいっそう不安定になりやすい。境界性パーソナリティ障害では、両方が重なっていることが多い。一方、回避型の人では、未解決な問題があっても、それを考えないことで自分を守っている。未解決な心の傷を意識していないことも多い。安定型の人では、そうした傷を抱えている場合でも、それを前向きに意味づけし、受け入れることができる。

これでおよそ自分のスタイルを把握していただけるかと思うが、さらに興味のある方は、拙著『愛着障害』やそれに掲載されている「愛着スタイル診断テスト」を参考にしていただきたい。以下に不安型と、回避型のケースを一例ずつ取り上げ、各タイプの人が幸福な人生を歩んでいくうえで気をつけたい点を述べよう。(以下略)

 未解決型愛着スタイルは、愛着トラウマを抱えた状態でもあり、そのうちの深刻なものが、複雑性PTSDである。複雑性PTSDの項も参照されるとよいだろう。

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▼愛着トラウマと複雑性PTSD

        ※本稿は、岡田尊司氏が、特別に書き下ろしたものです

トラウマで苦しんでいるケースで、当センターへ助けを求められる方の大部分は、親との関係や虐待、パート―との関係や攻撃、裏切りなどによって生じた愛着トラウマによるもので、突発的な生死にかかわるトラウマによるPTSDとは異なり、1回のダメージは軽度であるものの、それが逃げ場のない状況で、長期にわたって繰り返されることによって生じたものです。複雑性PTSDの基準を満たす場合もありますが、基準を満たさない場合でも、長年苦しんでいるというケースが少なくありません。

ここでは、複雑性PTSDに該当するかしないかにかかわらず、愛着トラウマによって苦しまれたり、生活に支障が生じたりしているケースへのカウンセリングの方針について述べます。

複雑性PTSDの症状

複雑性か単純性(事故や災害に遭遇することで発症するPTSD)かにかかわらず、トラウマを抱えていると、必発の症状として、次の4つがあります。

@ 過覚醒

 神経が過敏で、興奮した状態が続くため、眠りが浅くなったり、すぐ目が覚めてしまったりするだけでなく、イライラしやすく、些細なことに怒りを感じたり、爆発したりする。神経過敏から不安が強まり、自律神経が乱れ、動悸や過呼吸、下痢などの身体症状やパニックにとらわれやすい。

A  回避

トラウマに関係したことを避けるだけでなく、人付き合い全般やチャレンジすることや努力を要することを避けてしまったり、殻に閉じこもったり、引きこもったりすることもある。そうすることで、少しでも危険や不安を避け、安心感を確保しようとしている。何事にもあまり意欲や関心が湧かず、無気力になるという場合もある。

回避はしばしば他の対象や行動にも全般化する傾向があり、傷ついたことだけでなく、傷つく可能性のあるあらゆることに対して臆病になることで、行動範囲や選択肢が制限され、人生の可能性が狭まってしまう。ときには、現実を忘れさせてくれる依存性のある行為や物質に溺れることで、現実の不快さから逃れようとする。これも回避の一つの形である


 B 侵入(再現)症状 

トラウマ場面の記憶が生々しくよみがえり、あたかもその場にいるようにありありと迫ってくるフラッシュバック現象や悪夢を繰り返し見ることが含まれる。

C 感情や認知(思考)のネガティブな変化

最新の診断基準DSM−5で、PTSDの症状として新たに加えられた項目である。どんなことも、否定的に受け止め、傷ついたり、イライラしたり、落ち込んだりしやすくなる。本来なら楽しんだり喜んだりできるはずのことも、ポジティブに受け止められず、悪いところにばかり目が行ってしまう。そのため、慢性的なうつ傾向や傷つきやすさがみられる。他者に対しても安心感や信頼感が維持されにくくなる。信頼すべき相手に対しても、些細なことで傷つき、不信感や怒りにとらわれてしまいやすいためである。 

複雑性PTSDのケースでは、上記以外にも、以下の三つの特徴的な症状がみられます。

D  感情のコントロールの困難

感情のムラが激しく、急に泣いてしまったり、怒りを抑えられなかったりすることとともに、身体的な反応をコンロトールできなかったり、自分の内面から切り離されている状態(解離)も含まれる。

E  否定的な自己概念

自己肯定感が低く、自分のことを無価値で、恥ずかしい存在のように思い込んでいる。ときには、自分をバラバラの破片のように感じていたり、自分という存在などいないように感じていることもある。

F  対人関係の困難

誰ともつながっていないと感じたり、他者と親密で信頼し合える関係をもつことができない。そのため、自分の殻に閉じこもり、人との関わりを避けてしまうこともある。

これらの三つの困難は、まとめて自己組織化の障害(DSO)と呼ばれることもあります。

複雑性PTSDと診断されるためには、上記の7項目すべてを満たす必要があります。愛着トラウマを抱える人のうちでも、該当する人は限られます。

 

認知機能の低下も頻発する

今のところ、診断基準には組み込まれておらず、すべてのケースに認められる特徴というわけではありませんが、近年、子ども時代に不適切な養育を受けたり虐待をされたりした愛着障害の人や複雑性PTSDの人に、しばしば認められる問題として注目されているのは、注意や記憶、課題処理、学習といった認知機能に低下が生じることです。このことは、こうした背景をもつ人が、ADHDをはじめとする発達障害を疑われ、実際に診断されてしまう要因でもあると考えられるのですが、実際にそうしたケースはとても多いと言えます。

愛着トラウマと未解決型愛着スタイル

愛着トラウマをかかえているけれども、複雑性PTSDのすべての基準を満たさないというケースの方が多いですが、そうしたケースでは、不安定な愛着の課題を抱えやすいと言えます。その中でも、愛着トラウマの影響がもっとも如実に残っているのが「未解決型愛着スタイル」です。未解決型愛着スタイルの特徴は、普段は冷静で穏やかな人が、親について想起したり、親と遭遇したりすると、ひどく動揺したり、不安定になったり、別人のように表情をこわばらせるなど、未解決な課題が露呈することです。心にクレバスを抱えているようなものだと言えます。

未解決型愛着スタイルが、不安型愛着スタイルと結びつくと、もっとも不安定な傾向が強まり、この組み合わせは、境界性パーソナリティ障害にしばしばみられます。

未解決型愛着スタイルが、回避型愛着スタイルや恐れ・回避型愛着スタイルに併存することもあります。前者では、回避することで、自分の傷に向き合うことを避けており、何も問題がないようにふるまっていますが、問題を回避できない状況に置かれた時、トラウマが再現して、別人のような動揺や激しい反応を見せたりします。恐れ・回避型に未解決型が同居した場合、人間不信がさらに強まり、心を開くことに難しさを抱えます。過敏で傷つきやすく、孤立しやすい状態を呈します。

身近に増え続ける愛着トラウマや複雑性のケースと医療の限界

愛着トラウマやその結果生じた複雑性PTSDの状態を、医療的に改善しようとすると、大抵選択されるのは薬物療法による対症療法です。確かに症状の一部は、薬の効果により軽減するかもしれませんが、それは薬物への依存という新たな問題を生みやすいと言えます。これは、先ほどのPTSDの特徴的な症状の一つである「回避」においてみられる状態の一つに他なりません。

つまり、何ら根本的な解決を助けたわけではなく、薬によって現実的な課題からの回避を助けただけだとも言えるのです。

そうは言っても、現実的には、とりあえず目の前の苦しさを、お薬を使ってでも和らげるということが必要なこともしばしばです。しかし、それはあくまで緊急避難的な措置であり、最終的な問題解決ではありません。

緊急避難的な対処は、あくまで時間稼ぎであり、その間に、より根本的に改善に向けた取り組みが行われ、一時しのぎの対処から卒業できるようにサポートすることが本来です。

しかし、残念ながら、薬物療法以外のサポートを、医療が提供することは、あまりないのが現状です。面倒見のいい一部の精神科医や医療スタッフが、限られた時間の中でも長期にわたって支え続け、徐々に安定するということはありますが、善意や偶然に左右されるもので、難しいケース程、そうしたサポートも得られにくいと言えます。そこで重要になってくるのが、しっかりとした枠組みの中で、継続的に提供される専門的な心理療法です。

ここからは、専門的な心理療法として愛着トラウマを抱えた人が、改善へと向かううえで、どういう考え方で進めていけばいいかについて、具体的に述べていきましょう。

トラウマに向き合う場合の基本的なスタンス

トラウマに対処するだけでなく、それを克服し、回復していくために大切なのは、トラウマやそれに伴って起きている症状、問題行為をどう受け止め、とらえるかという考え方や向き合い方(スタンス)です。

トラウマに伴って起きる不快でネガティブな反応を、ただダメージを受け、心が痛んでしまったために起きている病的な症状だとだけ考え、ただそれを取り除こうとすると、実際には、それができない自分に苛立ち、無力感を覚え、よけいに落ち込んでしまうという悪循環に陥りがちです。トラウマなど抱えていない、完璧な自分の状態を目標にすると、そうなれない自分に落胆し、すべてを諦めてしまうということにもなりかねません。

トラウマに伴う症状や行動を、ただ自分がトラウマに打ちのめされ、支配されていることを示す、自分の弱さやダメさの証拠のように考えてしまうと、かえってトラウマを克服することが難しくなるのです。トラウマの原因になった相手を憎むか、自分の弱さを憎むか、いずれにしても、怒りや悲しみにとらわれ続けることしかできなくなってしまいます。

では、トラウマを克服し、より良い人生の可能性を実現していくためには、どうすればよいのでしょうか。

最新のトラウマ対処の方法が重視するのは、トラウマに伴う症状や行動が、自分がトラウマを抱えながら生きていくうえで必要な対処であり、そこにはポジティブな意味があるのだと考えます。ただ取り除かなければならない症状や弱さの表われではなく、そうすることで自分を守ろうとしていたり、克服しようと戦っているのだと、位置づけるのです。

たとえば、悪夢という現象があります。トラウマ的な体験をすると、わざわざそのつらい体験の場面が夢の中で再現されたり、ときには、現実よりもっと酷い、恐怖で凍りつくような場面に書き換えられて体験させられます。何度も何度も、毎晩のように同じ夢にうなされることもしばしばです。目が覚めているときだけでなく、眠っている間さえも苦しめられることに、余計につらさが増すわけですが、なぜ、わざわざ自分を苦しめるような理不尽な反応が起きてしまうのでしょうか。

そのことを、自分の心のダメージが大きすぎて、安らかな眠りさえ奪われ、ますます追い詰められていくのだという否定的な理解だけで、その恐怖の体験から何とかして逃れようとすると、逆にますますその恐怖が強まり、逃げようとすればするほどつきまとわれるということになってしまいます。

トラウマを乗り越えるために有効で適切な受け止め方は、苦痛に思える出来事にも、もっと前向きな意味を見出し、味方につけるということです。たとえば、悪夢という現象についても、ただ不快で、取り除くべき症状とだけみなすのでは、マイナスの面しか見ていないことになり、どんなに頑張っても、やっとゼロに戻るだけということになってしまいます。

しかし、それは事実とも違うのです。人は精神的な打撃を受けると、それを様々な形で再現し、再体験することで、乗り越えていこうとします。それは人がもつ自己回復力の一環として備わっている心の働きです。自らが受けた心のダメージを言葉にして語ったり、涙や叫びで表現したりすることもあれば、災害で親を亡くした子どものように、その出来事を遊びや絵の形で表現することもあります。夢を見るという働きも、そうした自己回復のための健全な機能と考えられるのです。実際、夢をみることが妨げられると、たとえ夢を見ない眠りがとれていても、精神の健康が保てなくなります。夢を見る眠りREM睡眠は、われわれの健康維持に不可欠な役割を果たしているのです。それは、心の浄化槽とも言うべき役割であり、肝臓や腎臓が、体にとって有害な物質を無害なものに変え、体から放出することで健康維持を行っているのと同じように、夢を見ることで、心は、精神的なダメージやストレスを解毒し、無害なものに変え、解消しようとするのです。そのために用いられる心の不思議な機能が、ダメージやストレスとなった出来事や懸念といったものを再現する作用であり、しかも単なる再現ではなく、象徴やイメージによる置き換えやシナリオの書き換えといった機能を巧みに駆使し、ドラマ化して体験するという驚くべき離れ業なのです。象徴による置き換えやシナリオの書き換えは、現実の場面に直接向き合うことによる衝撃を緩めつつ、同時に、無意識のうちに葛藤やとらわれを解消していく作用をもちます。

悪夢は、ダメージやストレスが大きすぎて、象徴化やシナリオの書き換えによる無害化がうまくいかなかったためだとも言えますが、それでも何とかして、ダメージを乗り越えるため解毒を行っている途中経過の状態だと捉えることができます。なぜなら、どんな悪夢も、ずっと見続けるということはなく、次第に頻度が減り、夢の内容も、それほど恐怖すべきものではない無害なものに変わっていくのが普通だからです。つまり、一時期、悪夢を繰り返し見たとしても、それは、解毒のために夢を見る脳の機能が、フル回転で頑張っているためだと考えられるのです。それを、浄化に失敗したとネガティブに受け止める必要はないのです。

無意識の機能だけでは、浄化しきれないほどの心の重荷を抱えていることを、悪夢は教えてくれているとも言えます。逃げるな、克服に取り組めと言ってくれているのです。それに対して、より有効な対処は、無意識の機能にだけ委ねるのではなく、意識的なレベルでも、ダメージの解消に取り組むことです。

 

回復に向かうためのコツ

トラウマを受け、それに苦しんでいる状態から回復するためには、もう一つ重要なポイントがあります。特にこれは、長い年月にわたって虐待やDV、イジメの被害を受けてきた複雑性PTSDのケースにおいて、とりわけ重要なことです。

それは、傷つけられた体験にばかりフォーカスするのではなく、その前後の状況や、そうした日々において、どんなふうに感じたり考えたりしながら暮らしていたかということも丁寧にたどっていき、多面的にその頃の時間を再現し、理解を深めるということです。さらに、そこに至るまでの幼い頃からの生活状況や体験を、悪いことだけでなく楽しかった思い出や救いとなっていたことも含めて、具体的に振り返る中で、トラウマ体験を歴史的に位置づけ、その人一人の視点を超えて理解していくということです。

もう一つ、さらに大事なことは、どういうつらい思いをしたかということで行き止まるのではなく、そういう目に遭いながらも、どうやって日々を過ごし、それに耐えることができたのか、乗り越えてきたのかという点にフォーカスすることです。特に、この点が、トラウマにとらわれて、余計つらくなってしまうか、自分を肯定し、元気を取り戻す方向に逆転できるかを左右します。

 トラウマ処理の基本的操作

 トラウマを処理するということは、何ら特別なことではありません。我々が日々の生活でダメージを負ったときにも、随時行っていることです。その場合には、まず、@自分が安心して話ができる存在に対して、A傷ついた出来事やそれに伴った感情を語り、吐き出し、聞いてもらい、B共感と肯定を与えてもらう、ということです。別の言い方をすれば、@安全が確保された状況で、安全基地となる存在とともに、Aトラウマとなった体験を再現し、そのときの感情(悲しさ、怖さ、怒り)を吐き出し、B共感してもらい、あなたは悪くないと言ってもらうなど、自分の傷ついたプライドや自尊心を回復させるということです。

@安全の確保(安全基地)、Aトラウマ体験を丁寧に言語化しながら再現するプロセスを共有する(トラウマの再体験と言語化プロセスを共有)、B共感的肯定と新たな意味づけ、という3つの要素からなっていると言えます。これは、重度の複雑性PTSDの場合でも基本的に同じです。

 愛着トラウマのような複雑性トラウマの場合、長期にわたって何度も何度も傷つけられるだけでなく、現在も傷つけられ続けているということも多いため、1回や2回のセッションで回復するというものではなく、長期にわたって、作業を繰り返す必要があるわけですが、トラウマを回復する基本原理は同じです。

 

 安全を確保する

 愛着トラウマの場合に回復の障害となるのは、セラピーの中で、カウンセラーがいくら安全基地を提供しても、自宅に戻れば、無神経な親やパートナーからの否定的な言葉や強い感情にさらされているというのでは、心理療法の効果は、ごく限られたものになってしまうということです。トラウマがあるだけでなく、現在も進行形で傷つけられ続けているということが、愛着のケースでは多いのです。その状況を改善するためには、トラウマケアを始めるより前の段階として、本人に安全を確保するための働きかけや環境調整が必要です。これは、愛着アプローチとして、当センターが力を注いでいる取り組みでもあり、愛着トラウマをかかえたケースでは、とりわけ必要ですし、うまく行えると大変効果的です。

 親に何が起きているかを伝え、親を動かしていくということに積極的に取り組んでいく必要があります。こうしたケースでは、往々にして、親は、感情的に未熟で、また振り返る力も弱いことが多く、頭で理解しても、すぐ以前の反応パターンに戻ってしまうため、一時的に進歩しても、また逆戻りするということを繰り返しやすいと言えます。親のお気持ちも受け止めながら、根気よくサポートを続けることが求められます。効果を徹底するためには、@親自身に愛着アプローチのプログラムなど、継続的なカウンセリングに取り組んでもらう、A親にうつや気分の波になどの症状が強くみられる場合は、治療につなげ、気分安定薬などの服用により情緒的安定を図る。B親と別に暮らす、接触を減らすなど、距離を保つ方法を考える。などの取り組みが必要になります。

トラウマの再体験を共有し、言語化する

語られる場面や出来事を、できるだけ具体的に再現する作業を一緒に行うとともに、起きた出来事を明確に言語化します。語られる言葉はしばしば断片的で、つながりや状況が曖昧なことも多いものです。しっかり聞きながら、最小限の質問をして、より具体的で、明確なものに再現していきます。そこで起きた出来事を、ともに体験します。その時味わった思いや気持ちができるだけ共有できるように、「どんな気持ちだった?」「どんな感じだった?」「「どんな思いだった?」かについて、具体的に語ってもらい、語られた気持ちや思いを、その場にいるように受け止めます。

前後の状況を丁寧にたどり、カウンセラーもその場に一緒にいるように感じ取ることで、その人が置かれていた境遇やそのときの気持ちが、より深く理解、共有されます。

明かされた事実に絡まり合った感情を、無毒化処理する

 語られて共有された事実を、カウンセラーの言葉で、改めてまとめなおします。「かくかくしかじかの出来事が起きたんだね。そのとき、○○さんは、〜と感じて、〜したんだね」と、数行の言葉に短くまとめます。そして、「そういう状況なら、そう感じて、そうした反応をすることは、当然だった思うよ」「そのことが、いまの○○さんに影響して、〜したとしても、不思議はない気がする」と、クライエントを、より深く理解したうえで、あらためて共感、肯定します。

 トラウマ体験が、トラウマとして有毒な作用を及ぼしてしまうのは、傷つけられたという出来事そのもの以上に、それに対して生じた思いや感情や行動を、理解・共感されることなく、あべこべに否定され、認めてもらえなかったことによる部分が大きいのです。そうした仕打ちを受けたのなら、そんなふうに思うことは、当然だと受け止め直すことで、手当も受けずに放置されてきた傷口がはじめて、認定され、守られ、否定されてきた感情も正当化されることで、トラウマがもつ怒りや恨みや自己破壊といったネガティブなエネルギーは大幅に低下するのです。その人の気持ちや考えが、それが常識的には悪いものとみなされるようなものであっても、そう思い感じ行動したくなるのは当然だと肯定されることで、その破壊的なエネルギーは、破壊に向かうのをやめるのです。

 感情をいくら吐き出しても、一向に癒されなかったのが、そんなふうに感じるのは当然だと心から受け止められると、自分の傷ついた気持ちがわかってもらえたと感じ、トラウマは、癒しを感じるのです。

 たくさんの場面で、理不尽な傷を受け、それに対して気持ちや考えや行動でさからうことさえできないようにさせられていたわけで、そこから回復するためには、心に残っている場面を一つ一つ再現し、無毒化していく作業を重ねることが必要です。たくさんの涙や言葉が必要ですが、それは回復への着実な道のりへとなっていきます。

AとBのプロセスは、区切って行われるというよりも、一連のプロセスとして行われることも多いと言えます。何が起きたのかということを整理しながら、悲しみや怒りを吐き出させ、それをしっかりと受け止め、そんなふうに感じることも当然だと肯定し、よくそれを乗り越えることができたと感嘆し、どうしてそうすることができたのか、その強さがどこにあったのかと、問いかけるのです。さらにはプラスの意味付けをし、そのことがあったから成長できたこともあるのではないかと、投げかけます。こうしてネガティブな感情を処理しながら少しずつ進んでいきます。

 最後の、トラウマ体験ゆえに、それを乗り越えたとき、むしろ大きな成長や恩恵が手に入るという逆転は、とても重要で、「トラウマ後成長」と呼ばれます。トラウマを克服することで、偉大な社会的貢献を成し遂げたり、救済者となった人は数多くいると言えます。特別に大きなことが成し遂げられるかどうかよりも、自分が苦しみを乗り越えてきたが故ら、同じように苦しんでいる人を助けたいと思うことは、とても多いと思います。そうした苦しみとは無縁に生きてきた人には、決して味わえない思いかもしれません。ジュディス・ハーマンは、「生存者使命」という言葉を用いて、虐待やトラウマのサバイバーが、抱くようになる使命感を表現しました。そのような思いをもつようになることは、決して稀でないように思います。

身体や行動、生活への働きかけも重要

愛着トラウマの克服は、何か特別なトラウマ療法を行えば、それですっかり改善してしまうというものではありません。何らかのセラピーを受けて、すっかり良くなったと感じる瞬間があるかもしれませんが、それは、一時的な気分の高揚や軽躁状態がもたらした「錯覚」で終わってしまうことも多いのです。

むしろ、改善のために大事なことは、心理的な取り組みばかりにではなく、身体面、行動面、生活面での地道な取り組みなのです。かつて、愛着トラウマを抱えた人が克服のために頼ったものとして、宗教的な修行があります。お寺で修行するといったことは、そうした課題を抱えた人が、安定を手に入れるのに役立ったのです。そうした修行を構成するのは、便所掃除や廊下の吹き掃除、長時間の読経や座禅といった単調なルーティンの繰り返しです。傷つきを抱えた人にとって、それはむしろ癒しや安定をもたらすのです。

 心理療法としてトラウマの克服に取り組むという場合も、トラウマを心理的に扱うことばかりにエネルギーを注ぎすぎると、改善をむしろ妨げてしまいます。現実の課題を放棄して、セラピーを受けることが仕事のようになってしまうと、よくないのです。心理療法に専念するのではなく、現実の課題に取り組みながら、セラピーの中で、そこで生じる困難を扱っていくほうが回復しやすいのです。

 しかし、もっと弱っている状態では、現実との接点がすっかりなくなって、家の引きこもっているという場合もあります。その場合は、カウンセリングやセラピーが、現実との接点となり、そこから外界へと可能性が広がっていくことが大事です。そのためにも、早い段階から現実的な課題を絡めながら、心理療法を進めていくことが大事です。

愛着トラウマと結びついた認知の課題を扱う

愛着トラウマを抱えている人の多くは、否定的な認知や二分法的認知に陥りやすい傾向をお持ちで、また基本的安心感や信頼感の乏しさから、対人関係においても、過度に気をつかったり、逆に攻撃的になったりと、程よいバランスで安定した関係を築いていくことに困難を抱えやいと言えます。

そうした特性は、生きづらさを深める要因となりますが、トラウマという視点にばかりとらわれいると、改善するどころか、ますます人に対して悲観的な見方をしてしまい、現実の対人関係の改善にもつながっていきにくいということになってしまいます。

そうしたことを踏まえて、そもそも当センターではトラウマセラピーにばかり関心が狭まることは、回復にマイナスと考え、もっと大きな視野で物事をとらえ直す力をつけていくことを重視したアプローチを開発し、取り組んできました。

それが、両価型、回避型、恐れ・回避型の各愛着スタイル改善プログラムで、愛着スタイルと結びついた認知や行動パターン、生活を総合的に改善していくことに取り組みます。つまり、愛着という観点に着目しつつ、自己視点を離れた物事の見方を鍛えるだけでなく、これまでの人生を総観するとともに、これからの生き方全般をみなおしていくプログラムとなっています。

愛着課題に応じて、そちらに導入して取り組んでいただくことは、どこでその方がつまずいているかを明らかにするでしょうし、何にどう取り組んでいけば、現状を変えていけるかを、明確に示せると思います。つまり、これらのプログラムは、トラウマに特化したセラピーではありませんが、愛着トラウマを本当の意味で克服するものとなっています。

上記のプログラムでは、視点を切り替えるメンタライゼーション・トレーニングや二分法的認知の改善、マインドフルネスなどの心身双方の取り組み、生活への働きかけなどを特に重視しています。

回避型や恐れ・回避型のプログラムでは、自己開示や恥をかくことへの恐れ、傷つくことへの恐れを克服することにも取り組みます。

上記のプログラムでは視点を切り替える力を高めていくトレーニングが一つの柱となるのですが、それは、ある意味、思考や価値観の逆転を起こすということです。傷つけられたことは悲しくて許せないと、そのつらさや怒りにとらわれ続けたところで、自分を消耗させ、人生を空費し、受けたダメージをさらに増幅しただけで終わってしまいます。それでは、トラウマにしろ、ネガティブな考え方にしろ、心身の苦しみにしろ、何一つ脱することができません。それを脱することを可能にするのは、見方や価値観を無逆転する発想や境地なのです。上記のプログラムは、その逆転の境地に一歩ずつ近づいていけるようにトレーニングする(修行するといってもよいでしょう)ためのものです。

価値観を逆転する禅的思考

昨今の心理療法、精神療法の潮流として、西洋的な善悪二元論的で、因果律に基づく、唯一絶対の真理を追究しようとする世界観から、東洋的な善悪一如の、多元的で寛容にすべてを受け入れる世界観へとシフトしたという点が大きく、その重要性が再び見直されていると言えるでしょう。

そうならざるを得なかったのは、西洋的な因果律に基づく治療体系が、行き詰っているということがあります。確かにさまざまな病気が治療できるようになり、寿命は延ばすことができるものの、人々は必ずしも、幸せではないという現実がありますし、また、因果律に基づく治療法が、心の領域に関する限り、あまり効果的でないということ、最近では、身体的な病気であっても、医学的な治療に限界が見えているということがあります。

東洋思想の中でも、ことに、心理療法に大きな影響を与えたものの一つが、禅です。欧米の臨床家が、自己否定や罪悪感に苦しんでいる患者を前にしたとき、彼らを苦しめているものの本質が、まさに善悪二元論的な視点であり、その苦しみから彼らを解放し救うことができるのは、悪いことも良いことだという逆転をもたらす禅的な思考法であることに気づいたのです。

こうした禅的思考との出会いによって、それまでの認知療法は一八〇度変わることになりました。、たとえば、これまでは、ネガティブな考え方をしてしまう人に対して、ネガティブな考え方のために、何事もうまくやることができないだけでなく、うまくいかいなことをさらに深刻にとらえてしまって、落ち込みやすくなってしまうのですと説明し、そのネガティブな考え方を、もっとポジティブなものに変えましょうと、考え方を修正することに力を注いでいました。ところが、実際には、そうした治療を受けても、自己否定が強い人やネガティブな考えの強い人ほど、考え方をポジティブなものに変えるのは容易ではなく、相変わらずネガティブな考えにとらわれている自分が、どうしようもなく救いのないものに思えて、治療にもいかなくなってしまうということになりやすいのです。

禅的な思考を取り入れた新しい認知療法(弁証法的行動療法やマインドフルネス認知療法など)では、否定的な考え方を修正して、ポジティブな考え方になるように働きかけたりはしません。弁証法的行動療法では、悪い考え方や行動も、ありのままに受け入れ、肯定します。そういう考え方や行動をするのにも、何か意味があるはずだという視点で、もっと詳しく事情や経緯を聴いて、そう考えたことをもっと深く理解しようとするのです。そうすることで、否定的な考え方や破壊的な行為であっても、そうするのはもっともなわけがあったのだと、受け止め、肯定することができるわけです。

ネガティブな考えや破壊的な行動を何とか変えさせたりやめさせようとしても、ちっとも効果がなかったのに、逆に本人の考えや行動を、心から理解して肯定するようになると、むしろ、そうしたネガティブな考え方や行動が落ち着いていきます。

なぜなら、苦しんでいる患者(クライエント)が危険なことをしてまで求めていたのは、わかってもらい、ありのままの自分でいいんだよと肯定されることだからです。そうされて初めて、自分の中に納得が生まれ、変わろうとする気持ちが生まれるのです。

マインドフルネス認知療法の場合も、根本にある考え方は同じです。ネガティブな考え方にとらわれていたとしても、それを改善しようとはしません。改善しようとすることは、それがよくないと思っているからであり、良くないと評価しているからです。ネガティブだという言い方自体、すでに否定的な評価を含んでいます。評価することが、そもそもその人を、自分はうまくやれていないとか、失敗したとかといった否定的な考えにつなげることになるのです。それゆえ、必要なことは、ネガティブな考えをポジティブに変えようとすることではなく、評価をせずにありのままに受け入れ、味わうことです。季節や天気によって、空模様や景色が変わるように、心模様や心の景色も変わる。雲一つない天気の日もあれば、土砂降りの日もある。人生に晴天の日ばかり求めようとしても無理な話で、雨降りの日や嵐の日もある。それをくよくよ嘆いたり、何とかしようとしなくていい。そのまま味わえばいい。季節が巡るから、自然は豊かな表情や味わいを見せてくれます。天候も同じです。予想もつかないし、一定しませんが、そこにこそ人生の味わいがあるわけです。どうせそこで暮らすのであれば、それを嘆くよりも、味わったほうがいい。いまは土砂降りだとしても、数日もたたないうちに、また晴れてくるのですから。

 

白か黒か、どちらか一方ではなく、どちらも受け入れる

愛着トラウマを持つ人は、発達の課題をもっていることも多いと言えます。親に発達や愛着の課題があると、子どもに共感的なかかわりができず、極端な対応をしてしまいがちです。そのため、子どもは遺伝的に発達の課題を親から受け継ぎやすいだけでなく、養育環境の影響によっても、メンタライゼーションや社会的スキル、実行機能などに困難を抱えやすく、極端でバランスの悪い認知に陥りやすいのです。

その代表が、両極端な認知です。発達や愛着に課題のある人では、白か黒かどちらか一方でなければならないと考えがちです。しかし、現実は、白も黒も混じっているものです。むしろ灰色のことの方が普通です。同じ人であっても、さまざまな面をもっていますし、その時の事情によって、違う面が出てくることも普通です。その人自身に心に余裕がなかったり、体調に問題があったりすれば、普段は優しく親切な人であっても、素っ気ない反応が返ってくることもあります。そうした事態をどう受け止めるかは、その人のもつメンタライジング(相手の気持ちを理解すること)の能力によって大きく左右されます。優れたメンタライジングの能力をもつ人は、相手がストレスや疲労、体調面の問題を抱えていて、きょうは余裕がない状態なのかなと思い、相手をあまり負担をかけたり、困らせたりしないように配慮し、込み入った相談は別の機会にしようと考えます。しかし、メンタライジングが弱かったり、自分も切羽詰まっていたりすると、相手の事情などお構いなしに、自分のことに執着し、それに満足な反応を返してくれない相手に対して、怒りや不信感をもってしまうわけです

相手との関係が、些細なトラブルや期待外れな出来事から、破綻してしまうというとき、そこには期待通りの人は「良い人」で、期待に反する人は「悪い人」という白黒思考(二分法的認知)がかかわっています。両極思考の強い人では、たった一度の出来事で、「良い人」から「悪い人」に認識が変わってしまう危うさがあります。同じ人に対しての評価が、簡単に裏返り、態度も変わってしまうのです。優しく馴れ馴れしく甘えていたのが、突然、相手を突き飛ばし、平手打ちを食らわすような豹変も起きるわけです。

こうした関係の不安定さは、「対象恒常性の障害」と呼ばれたりします。同じ人に対する気持ちや評価、態度といったものが、些細なことから大きく変動しやすいわけです。

愛着の課題をもつ人では、程度の差はあれ、対象恒常性の障害をかかえやすいと言えます。

その根底には、いつも優しくしてくれる相手ときょうは少し素っ気ない相手とが、同一の存在で、そうした違いが生まれるのには何か事情があるのではと、推し量るよりも、自分が傷つけられたことにばかり目が向いてしまうこと、つまり、自己視点を離れて相手の事情や気持ちを推測するメンタライゼーションの弱さがあるわけです。

メンタライジングの弱い人では、相手の気持ちや事情などはまったく考えにはいらず、自分の意に反したところにばかりとらわれがちなので、一旦そうした関係になってしまうと、自分から修復することは大変難しくなってしまいます。

相手がとても寛容で、優れたメンタライジングをもつ場合は、その人が抱いた不信感や怒りも忍耐強く受け止め、事情を説明したり、気持ちの整理を助けたりして、その人が納得するまで、話を聞いたり、なだめたりしてくれることで、関係がどうにか修復するという場合もありますが、相手もメンタライジングが弱いか、気持ちや時間にも余裕がないという場合には、なだめるどころか、逆ギレして、関係を拒否してしまうということになり、それまでの良い関係も、すっかり水の泡になってしまいます。

自己視点を離れ、大きな視野で事態を眺めたり、相手の立場で考えたりすることができて初めて、愛着トラウマの克服は可能となるのです。

トラウマだけを除去するような方法には、自ずと限界があり、重い愛着トラウマのケースでは、自己視点を超越するためのメンタライゼーションへの根気強い働きかけが不可欠です。

 

いろいろな自分を、大切なものとして受け入れる

トラウマの影響が深刻な人では、バラバラになった自分がまとまりなく破片のように散らばっていることもあります。そうした断片化した人格をパーツと呼んだりします。トラウマの治療では、一つ一つのパーツを大切に扱いながら、その役割を認め、受け入れることで、次第にまとまりをもった全体へと統合していくのを助けます。

そうした深刻なケースでなくても、人にはいろんな面をもちます。とてもしっかりして、前向きに頑張っている面や、子どものように駄々をこねたり、すねたりする面、思いやりがあり優しい面、理不尽なことに対して強い怒りにとらわれ、それを爆発させる面、それがまるで別人のように思えることもありますが、どれも自分の一部であり、どんな人もさまざまな面をもっていて当然なのです。

不安定な養育環境や不遇な境遇を生き抜いてきた人では、そうした心の各部分が、生き延びるのに役立ってきたことも多いと言えます。その役割をねぎらい、自分の大切な一部として受け入れることが、統合を促します。それを問題視したり、困りもの扱いしたり、排除したりするのではなく、頑張ってきたんだねと、そうした一面をもつことで生き抜いてこれたこと、そうした面をもたなければ、やってこれなかったことを理解し、肯定するのです。そうすることによって、癒やしが促進され、頑固に意地を張っていたパーツが尖らなくてよくなり、極端な偏ったバランスが、ほどよく調和したバランスへと変化していきます。

子どもや若者の解離は、すべて親からの虐待的な養育によって起きていると言っても過言ではありません。こうしたケースでは、愛着アプローチが極めて有効です。親を支え、親の対応を変えることで、劇的な変化が起きます。

成人のケースでも、基本は同じですが、親により変化が難しくなります。親との接触を減らすとともに、接触した時だけでも、安全基地としてふるまえるように、働きかけを行います。

 

安全性と改善効果に優れたナラティブ・エクスポージャー

ヴェトナム戦争でPTSDを来した兵士に対して使われ、有効性を実証された方法であるナラティブ・エクスポージャー・セラピーは、比較的容易に行うことができ、しかも、安全性の高い方法です。しかも、愛着トラウマのような長期にわたってダメージを受け続けたケースにも使うことができ、しかも有効なことが多いです。

ナラティブ・エクスポージャーの名前の通り、トラウマ体験を語ることによって、再体験と暴露を行い、トラウマに向き合う恐怖を乗り越えながら、感情を吐き出すことでカタルシスを引き起こし、再統合を成し遂げるものです。

本来の方法そのままでは、愛着トラウマには適さないため、当センターでは、岡田尊司氏が改良を加えた方法を用いて行います。

この方法は、克服への意欲がしっかりしていることが前提です。また、自分に起きたことを言語化する能力も、ある程度必要です。また、それまでのカウンセリングの中で信頼関係が育まれ、トラウマ体験について、すでにある程度語られ、乗り越えたいという気持ちが高まった段階で、仕上げ的に行うとよいかもしれません。


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